「俺みたいになるな」~41歳デザイナー、やっと見つけた最強の生き方~
ぼくは今、41歳だ。ようやく、自分の理想の生き方ができるようになった。臆病で慎重なぼくだから、ずいぶんと時間がかかったよ。オンラインサロン「前田デザイン室」はみるみるうちに有名になって、今はずっと夢だった漫画家への一歩を踏み出した。言っておくけど、ぼくはインフルエンサーじゃない。ごく普通の一般人。今日は、こんなぼくが、どういう風に働いて、選択して、今にたどり着いたのか。やっと見つけた最強の生き方について、話そうと思う。
任天堂で身に付けた「働き方」
ぼくは、新卒で任天堂という会社に入った。配属されたのは、企画部。いわゆるプロモーション部隊。CMを起点に、グラフィックや店頭の宣伝物を展開するところ。その中のデザインチームにいたんだ。
任天堂で働くには「人のせいにしない」ことがまず大前提。人のせいにしてるとね、何も進まないの。例えば「説明が伝わらなかった」「案が通らなかった」と思っても、それは多分、伝え方が悪くて。デザインが通らなかったのは、デザインが良くなかったわけで。そこで最初は苦労した。
人は変えることができないから「自分を変えよう」「仕事をおもしろくしよう」と思ったんだ。ぼく、もともと口下手だから、説明で企画を通すということが苦手だった。だから、デザインの力でガンガン提案したよ。頼まれる前にデザインを作って見せてしまって、上の人達に納得してもらう。そうすればあとはOKみたいな状態を作るという風に。
仕事をおもしろくしようとすると、プラスアルファの労力がかかる。でもね、なんとなくやってたら本当につまんないものになっちゃうから。
30歳を目前にした焦り、デザイナーとしての価値
30歳を目の前に、ぼくはかなり焦っていた。毎日不安だったよ。ぼくは任天堂にいて、その環境や仕事しか知らなかったから。会社に入って今までがんばってきたことで、どれだけ前に進めたのか。自分がデザイナーとしてどのレベルにいるのか。それを、確かめたいと思った。デザイン会社で勝負した方が、デザインを極められるんじゃないかとも。
ごく自然に、転職のことも考えた。
28歳の冬。応募したのはgood design company。業界で有名なクリエイティブデェレクターの水野学さんが代表を務めているデザイン会社で、書類を送ったら「面接に来てください」とメールが届いた。
そこで、わりとほめられたんだよね。ひとこと目から「すごく良いと思っています」と言われて。「メーカーに、こんなデザイン上手い人いたら嫌だな」とか。家族に反対されていて、転職を迷っていることも正直に話したら「家族を説得してください」とまで最後に言われて。正直、受かった気でいた。「どうしよう、これ。会社辞めんのかぁ」と真剣に考えたりして。それで結果のメールを見たら「不採用です」って(笑)。がくーんってなった。
それでも、業界の第一線で活躍する人にほめられたことで、ものすごく救われた。ぼくがやってきたことは間違いじゃなかったんだ。
それから2年間。平穏に過ごしていたんだけど、30歳になったぼくはまた悩んで、デザインの仕事に誇りが持てなくなっていた。焦りからセミナーや本で知識を吸収しまくっていたとき「捨てられない印刷物を目標にしている」というGRAPH代表・北川一成さんのインタビュー記事に感銘を受けて、講演を聴きに行った。
そこで作ったもの見てもらったときに「本物になりたかったら東京に来い」と言ってもらえて。後日、雑誌でGRAPHの求人広告を見つけて面接に行ったんだけど、面接官の人に「あなたは、この業界のことをよく分かっていらっしゃらない」と言われちゃって。それでもうだめで、ああこれ挫折したって。
そこで思ったのは、自分で自分の環境を作らないと、ダメなんだってこと。
今の環境を超えるには、もう自分で作るしかないと思った。
ぼくはそれまで、どこかで環境のせいにしたり、人任せにしすぎていたんだ。でもそれからは、仕事をおもしろくするのは、自分次第だと気付いて。環境のせいにしないでやろうと決めた。
父の認知症と、ぼくに残された20年
それからちょっと悶々とする時期が続いた。仕事は楽しんでやってたけれど「うーん、これで良いのかな」みたいな。ゴルフとか始めたりして。心を燃やすものを、デザインから違うところに移そうとしたんだよ。「デザインよりおもしろいもの、見つけたわ」ってゴルフの練習に週4で行ったりして。
40歳が、迫っていた。
そんな中、父の認知症が進行。何でも口に入れるようになってしまった。痔の薬を間違って食べちゃって、救急車を呼んだこともある。すごく暴力的になって大変だったって。その一件をぼくは、仕事から帰って知ったんだ。京都でゲームの広告を作っていたぼくに、妻は気を遣って連絡してこなかったらしい。僕は無力さと悔しさで、複雑な気持ちになった。ゲームの広告作ってる場合じゃないんじゃないかって。
それで、人生をもう1回冷静に考えようと思ったんだ。
実はぼくの父のお母さんも、お兄さんも認知症。認知症って遺伝することが多いらしいから、ぼくもきっと認知症になる。その時ぼくは35歳。60歳で発症すると考えると、ぼくの人生はあと20年くらいしかない。
もう、ちょっとしかないんだ。
ぼくは、フリーランスになる決意をした。
もともとフリーランスでデザインしたいという気持ちはあったけど、立場上とても言い出せなかった。踏ん切りがついたのは、父の一件があったから。父にはそういう面で感謝してる。父は、ぼくが大学受験に失敗した時も「四浪五浪でもしたらいい」と励ましてくれた。幼いころ絵が好きになるきっかけをくれたのも、父だった。
ぼくのターニングポイントにはいつも、父がいた。
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