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「俺みたいになるな」~41歳デザイナー、やっと見つけた最強の生き方~

僕のキャリアを振り返った。15年勤めた任天堂をやめてフリーランスに。そして漫画家に。思えばほんとに遠回りして来た。ようやく自分を出し切れるようになって来た。自分は本当に流されやすい人間。流れるプールに流れていた。流れながらそれを面白がって来たからこそ流れていることに気がつきにくかった。反省点でもあるし、自分の強みでもある。人間の弱みは強みなのだ。これからも自分に正直に120%の自分を貫いて生きたい。

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ぼくは今、41歳だ。ようやく、自分の理想の生き方ができるようになった。臆病で慎重なぼくだから、ずいぶんと時間がかかったよ。オンラインサロン「前田デザイン室」はみるみるうちに有名になって、今はずっと夢だった漫画家への一歩を踏み出した。言っておくけど、ぼくはインフルエンサーじゃない。ごく普通の一般人。今日は、こんなぼくが、どういう風に働いて、選択して、今にたどり着いたのか。やっと見つけた最強の生き方について、話そうと思う。


任天堂で身に付けた「働き方」

ぼくは、新卒で任天堂という会社に入った。配属されたのは、企画部。いわゆるプロモーション部隊。CMを起点に、グラフィックや店頭の宣伝物を展開するところ。その中のデザインチームにいたんだ。 

任天堂で働くには「人のせいにしない」ことがまず大前提。人のせいにしてるとね、何も進まないの。例えば「説明が伝わらなかった」「案が通らなかった」と思っても、それは多分、伝え方が悪くて。デザインが通らなかったのは、デザインが良くなかったわけで。そこで最初は苦労した。

人は変えることができないから「自分を変えよう」「仕事をおもしろくしよう」と思ったんだ。ぼく、もともと口下手だから、説明で企画を通すということが苦手だった。だから、デザインの力でガンガン提案したよ。頼まれる前にデザインを作って見せてしまって、上の人達に納得してもらう。そうすればあとはOKみたいな状態を作るという風に。

仕事をおもしろくしようとすると、プラスアルファの労力がかかる。でもね、なんとなくやってたら本当につまんないものになっちゃうから。

30歳を目前にした焦り、デザイナーとしての価値

30歳を目の前に、ぼくはかなり焦っていた。毎日不安だったよ。ぼくは任天堂にいて、その環境や仕事しか知らなかったから。会社に入って今までがんばってきたことで、どれだけ前に進めたのか。自分がデザイナーとしてどのレベルにいるのか。それを、確かめたいと思った。デザイン会社で勝負した方が、デザインを極められるんじゃないかとも。

ごく自然に、転職のことも考えた。

28歳の冬。応募したのはgood design company。業界で有名なクリエイティブデェレクターの水野学さんが代表を務めているデザイン会社で、書類を送ったら「面接に来てください」とメールが届いた。

そこで、わりとほめられたんだよね。ひとこと目から「すごく良いと思っています」と言われて。「メーカーに、こんなデザイン上手い人いたら嫌だな」とか。家族に反対されていて、転職を迷っていることも正直に話したら「家族を説得してください」とまで最後に言われて。正直、受かった気でいた。「どうしよう、これ。会社辞めんのかぁ」と真剣に考えたりして。それで結果のメールを見たら「不採用です」って(笑)。がくーんってなった。

それでも、業界の第一線で活躍する人にほめられたことで、ものすごく救われた。ぼくがやってきたことは間違いじゃなかったんだ。


それから2年間。平穏に過ごしていたんだけど、30歳になったぼくはまた悩んで、デザインの仕事に誇りが持てなくなっていた。焦りからセミナーや本で知識を吸収しまくっていたとき「捨てられない印刷物を目標にしている」というGRAPH代表・北川一成さんのインタビュー記事に感銘を受けて、講演を聴きに行った。

そこで作ったもの見てもらったときに「本物になりたかったら東京に来い」と言ってもらえて。後日、雑誌でGRAPHの求人広告を見つけて面接に行ったんだけど、面接官の人に「あなたは、この業界のことをよく分かっていらっしゃらない」と言われちゃって。それでもうだめで、ああこれ挫折したって。

そこで思ったのは、自分で自分の環境を作らないと、ダメなんだってこと。
今の環境を超えるには、もう自分で作るしかないと思った。

ぼくはそれまで、どこかで環境のせいにしたり、人任せにしすぎていたんだ。でもそれからは、仕事をおもしろくするのは、自分次第だと気付いて。環境のせいにしないでやろうと決めた。

父の認知症と、ぼくに残された20年


それからちょっと悶々とする時期が続いた。仕事は楽しんでやってたけれど「うーん、これで良いのかな」みたいな。ゴルフとか始めたりして。心を燃やすものを、デザインから違うところに移そうとしたんだよ。「デザインよりおもしろいもの、見つけたわ」ってゴルフの練習に週4で行ったりして。


40歳が、迫っていた。

そんな中、父の認知症が進行。何でも口に入れるようになってしまった。痔の薬を間違って食べちゃって、救急車を呼んだこともある。すごく暴力的になって大変だったって。その一件をぼくは、仕事から帰って知ったんだ。京都でゲームの広告を作っていたぼくに、妻は気を遣って連絡してこなかったらしい。僕は無力さと悔しさで、複雑な気持ちになった。ゲームの広告作ってる場合じゃないんじゃないかって。

それで、人生をもう1回冷静に考えようと思ったんだ。

実はぼくの父のお母さんも、お兄さんも認知症。認知症って遺伝することが多いらしいから、ぼくもきっと認知症になる。その時ぼくは35歳。60歳で発症すると考えると、ぼくの人生はあと20年くらいしかない


もう、ちょっとしかないんだ。


ぼくは、フリーランスになる決意をした。

もともとフリーランスでデザインしたいという気持ちはあったけど、立場上とても言い出せなかった。踏ん切りがついたのは、父の一件があったから。父にはそういう面で感謝してる。父は、ぼくが大学受験に失敗した時も「四浪五浪でもしたらいい」と励ましてくれた。幼いころ絵が好きになるきっかけをくれたのも、父だった。


ぼくのターニングポイントにはいつも、父がいた。

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