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“上田バロン”という名前は究極のデザインだ。

イラストレーターの上田バロンさんが、12月2日(金)に20周年イベントを開催します。前田デザイン室では、9月の定例会で室長の前田さんと上田バロンさんが対談を行っており、その中で、上田バロンさんのこれまでの軌跡を追いました。

上田バロンさん(左)と前田高志さん(右)

もともと上田バロンさんは、前田さんのギャラリーで行われていたサタケシュンスケさんの個展に足を運んだこともあり、前田さんの活動に興味を抱いていたそうです。


イラストを始めたきっかけ

前田高志さん(以下、前田):上田バロンさんは、京都のご出身ですよね。

上田バロンさん(以下、バロン):京都で生まれました。父親が公務員で、幼稚園から高校まで7回転校しました。転勤族でした。

前田:絵は、もともと上手だったんですか?

バロン:転校したとき、周りの生徒から珍しがられるじゃないですか。早めに友達を作ろうと思い、当時流行っていたガンダムの絵を描いたら、クラスメイトが列になって机に並んでくれて、そこから仲良くなりました。自分の絵で誰かが喜んでくれる、そういう刷り込みのようなものはありました。

前田:へ〜!コミュニケーションの手段だったんですね!もともとイラストレーターになろうと思っていたんですか?

バロン:高校の時も絵は描いていたんですが、個人の楽しみでしかなかったです。絵を仕事にしている職業も考えたのですが、漫画家などしか思い当たりませんでした。

前田:実は、僕も漫画家になりたいと思っていました。でも本当に好きなものって傷つきたくないから仕事にはできないのかも。

バロン:そういった職業より、自分にはまりそうな、デザインを学べる大阪の専門学校に入りました。そこの学校は、高性能なMac(Apple社のパソコン)があり、ゲームや建築、音楽などを作っていました。そのパソコンに出会い、それを触れた方が僕にとってはいいな、と思いました。アナログ人間だったので。


デジタルの良さを吸収していく

前田:その学校でデザインを学んで、デザイン会社に入ったんですよね。

バロン:やはり絵を描きたかったので、絵を描ける、自分にとってベストな会社があるんじゃないかと思いました。でも、専門学校でCGを作成したり、パソコンを触るうちに、パソコンを使うグラフィックデザインの仕事に就きたいと思うようになりました。

前田:1990年代。Macのパソコンの波がきていたときですよね。

バロン:はい。絵の具で絵を描くアナログな方法以外に、コンピューターも覚えていきました。

前田:その頃、影響を受けていた人って誰ですか?

バロン:ミュシャも好きでしたし、やっぱり多大に影響を受けた人は若野桂さんという人です。

 やっぱりコンピューターが広く知られ始めた時期でしたが、コンピューターのデジタルの絵は、安っぽく簡単に見られちゃう不遇な時代でした。そのレッテルではなく、デジタルの軽さやヌケ感など、手書きとは違う良さを認めたかったんです。

前田:ミュシャも若野桂さんは意外ですね。どちらかというと繊細で女性的なイメージなので、バロンさんのスピード感と力強さとは真逆のように感じます。ちなみに、僕は草野剛が好きでした。

バロン:雑誌でそういったクリエイターがチームを組んで作品集などを作っていましたよね。


デザイン会社での転機

前田:デザイン会社に就職してからは、どんな仕事をしていたんですか。

バロン:やっていたことは、企業のPRの案件などです。

前田:その間に、絵を描いたり、アートの活動はしていたんですか?相当忙しかったと思うのですが……。

バロン:やっていました。仕事の合間に落書きをするんですが、描いたものに色を塗りたくなるんですね。入社して二年目くらいに、会社の先輩とふたりで、イラストの展覧会をやりました。イラストに対して人から反応が得られ、それが嬉しかったです。

 人からリアクションがあるのは、いいも悪いも含めて大事です。自分が一生懸命作った達成感もありますが、人から反応があるのはこんなにも報われる、そういった体験があるので、20年やってこれたんだと思います。


会社をやめ、独立するまで

バロン:会社に入ってから3年くらい経ち、悩みだしたんです。仕事は楽しかったですが、求められていることと自分のやりたいことが違ってきていました。会社では、新しいパソコンを毎年買ってもらえて、3DCGなどの新しい表現を追求してほしいと言われていました。

前田:それはすごくいい環境ですね。絵的にも、わりと3Dとか、リッチに見えるものが求められてた時代ですよね。フラットデザインが始まる前の。

バロン:僕がもう戦えないと思ったのは、ある日、トイストーリー(アメリカの3Dアニメ)を見たんですよ。コンピューターの技術って日進月歩なんで、常に新しくなっていくんですね。そしてその3Dアニメを作るソフトが使えないと、ああいうものは作れません。コンピュータのソフトの機能がすごいだけだと感じ、そうなってくると、コンピューターに自分が使われている気がしました。自分の喜びはもっと他のところにあると思いました。


名前のブランディングと独立

バロン:会社でももっと評価されたいという思いはありましたが、覚悟は決まっており、会社は辞めました。

前田:絵を描くなど、アート活動は軌道に乗っていたんですか?

バロン:いや、まったくしていませんでした。

前田:え!?そうなんですね。不安じゃなかったですか?

バロン:外国の大学に勉強しに行ったりなど、そういった選択肢もあると思い、就職活動はあまりしていませんでした。その後結婚したので、独立しデザインの仕事を受けていました。

前田:ぼくが一番気になっていることを聞かせてください。上田バロンと名乗っていくっていうのも、セルフブランディングの一環だったんですか?たしか、最初は「上田男爵」と名乗っていたんですよね?

バロン:上田っていう名前は画数が少ないので、かっこいいと思わなくて。最初に上田男爵としたのも、画数を増やしたいというだけなんです。(笑)英和辞典で「男爵」を引いたら「バロン」と出たので、カタカナはバランスがいいと思い、上田バロンとしました。

前田:ブランディングの本などはあまり出ていなかった頃だと思いますが、自然とやっていたんですか。

バロン:この名前はインパクトがあり、覚えてもらえる力を持ってたので、まぐれだけど、名前をつけてよかったと思います。

前田:言葉の力はすごいですね。

バロン:名前を覚えてもらえるって嬉しいですし、人の記憶に残ることは得なんだと思います。名刺なども、常にアップデートしていかなければと思いました。

前田:覚えてもらえるのは最初の勝負ですよね。それももちろん力なのですが、ぼくは名前はデザインだと思っていて。上田バロンという名前で美学がズレることができない抑止力になっているから。名前がビジョンになっている。


イラストレーターとして

前田:バロンさんは「イラストレーター」という肩書を名乗っていますが、枠にとどまらない、むしろ「アートディレクター」に近い気がしますが「イラストレーター」という肩書にはこだわっているんですか?

バロン:イラストレーターを志していたとき、わりと「食べれない職業」と言われてたんですよ。広告業界の中では、クライアント、広告代理店、制作会社があり、末端のイラストレーターは、ヒエラルキー内では下位だったんです。

 そうなると、単価が安いので数をこなさないといけなかったです。最初は「上田バロン」以外のスタイルの絵も、案件に合わせたくさん描きました。まず信頼関係を作るため、こまごました仕事など、できることは全部やっていくようにしていました。

 そのうちに、もっと広く知ってもらわないといけないと思い、自分のブランドを作りながら、広報活動もやっています。

自身のスタイル作り

バロン:ある作家さんの展覧会を見に行ったことがあったんです。そのときに、その展示の世界が「その人」らしかったんですよね。どの作品にも一環して「その人らしさ」があるなと。自分のポートフォリオを見たとき、色々なクライアントに対応してきたから、どの絵が自分自身のスタイルなのかが、よく分からなかったんです。

 スタイルがないまま仕事を続けるのは可能でしたが「自分だけのものを描きたい」とかなり思いました。オリジナリティを大事にしたかったんですね。

前田:うんうん、自分以外の人ができる仕事って価値はそんなに高くないですもんね。

バロン:自分のオリジナリティってなんなんだろうと考えたときに、会社に行ってたとき仕事の合間に落書きしていた絵を思い出しました。そういう落書きを、すごく楽しんでたことに気づいたんですよ。

前田:落書きですか!落書きって大事ですよね!
(前田デザイン室で落書きをテーマアートブックを作っているのでタイムリーな話で前田さんが興奮しています)

バロン:無意識ですしね。

前田:確かに。無意識にこだわってた時代がありました。無意識って自分なんですよ。あんまり考えて描いてないですよね。

バロン:こういうのです。(落書きの絵を見せてくださる)

前田:あーーーーー!すごい。でも、この時期から芽は出てますね。

バロン:宇宙人だからこの目なんですよ。

前田:そうなんですか!宇宙人なんですね。バロンさんの絵は、画集「EYES」にもあるように、目の中に輪っかがぐるぐるあるのが特徴ですね。

バロン:目はけっこう個性が出る要素なんですよね。この作風を、まるまる受け入れてくれるクライアントを探さないといけない、そう感じるようになっていきました。支持してくれるクライアントと同じ目線で一緒に仕事をする、フェアな関係性を作るやり方に変えていきました。

前田:よき理解者を見つけないとですね。クライアントワークをこなしている時期から「上田バロン」として仕事ができるようになるまでには、どのくらい時間がかかったんですか?

バロン:一年くらいで形になってるかもしれません。宇宙人や虫などで輪っかのある目は描いていましたが、ギョロギョロしててもおかしくはないんですよ。この強すぎるスタイルを人間を描くときになじませていくにはどうしたらいいか?を考えながらやっていました。

前田:目を起点にスタイルを作っていったというのが面白いです。


スタイルのアップデート

前田:具体的にどうやって自分のスタイルを売り込んでいたんですか?今のようにSNSはない時代ですし。

バロン:まず自分の絵を磨くところからやりました。当時から自分の絵は個性が強すぎ、使いにくい「嫌われてる絵」だと認識していました。世間的にもなかなか我が強くて染まりにくい絵だったんですが、この20年の間、自身で鍛え上げアップデートしてきた感はあります。

前田:すごい。それは、お客さんや見てくれる人に完全に合わせにいくわけじゃないですよね?自分の中でこれがいい!っていうのを磨いていくっていうことですか。

バロン:はい、そうですね。自己改善もありますし、外部からの依頼に対し、基本は忠実に守りながら新しい要素やテーマにチャレンジしていき、絵を進化させています。

前田:磨いてきたイラストの世界観というのは、どうやってプレゼンテーションしていったのですか?

バロン:グループ展をけっこうやりました。グループ展は、色々なジャンルの人が集まり、同じテーマで作品を作り展示します。例えば「春」など、テーマがひとつあり、それに沿って自分のイラストをどこまで描けるのか探っていました。


企業とつながり、仕事を拡大する

バロン:グループ展だけでなく、個展も開催しました。作品を売るだけで終わるのではなく、企業に自分の作品を見て覚えてもらい、依頼をもらい、ビジネスにしていました。

前田:個展やグループ展だけでは企業と繋がれない気がするのですが、どうやって企業とはつながっていったんですか?

バロン:単純に連絡を取りました。東京で展覧会をやってるとき、東京にいることを言い訳に、出版社やレコード会社に営業の電話をかけました。

前田:電話番号とか連絡先は知ってたんですか?

バロン:知らなかったです。調べました。

前田:直接会ってたわけじゃなく、調べて電話してたんですね。すごい!パワープレイ!!でも、そうですよね。一番効果ある。ぼくが知っているクリエイターはみんな必ずやってますね。

バロン:駆け出しだったんで。それでも、そのあと大阪の番組の仕事をもらえました。

前田:バロンさんはそうやって上田バロンさんになっていったんですね。僕も前田バロンになっていきます!

今日は、ありがとうございました。


前田さんとの対談ふたたび

自身の名前をつけるところから、落書きを自分のスタイルにアップデートさせていった上田バロンさん。12月3日(土)に20周年特別イベントが開催され、その中で再度、前田さんとの対談が実現します。
https://teket.jp/5196/17827

今回開催されるイベントや、今後のバロンさんの活動にも注目したいです。

上田バロンさんと前田高志の対談、見にきてください!


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

ライティング:神戸和可
撮影:角ちゃん
企画/編集:前田高志
監修:浜田綾


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